吉野林業の歴史
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奈良県吉野郡吉野川流域で培われた林業で、1500年頃から続いています。
密植
苗と苗の間の距離を狭め、細く成長するように植えます。 そうする事で細かい木目の木になります。 1ヘクタールあたりに約8000~10000本植えます。 (一般的な植林本数約3000本)
枝打ち
木が若いうちに余分な枝を切り落とします。これを行う事で、節の少ない材になります。管理されている山林の木は途中に枝がないので一目でわかります。
多間伐
日光をあてて成長を促進させるため、曲がった木や成長の妨げになる木を伐採します。 間伐された木は、燃料や薪、製品に使われ、捨てる事なく活用されます。
葉枯らし
切ったばかりの木は渋が抜けておらず中心の色は暗いです。 材色を淡紅色に仕上げるために 葉をつけたまま、穂先を木口より高くして 半年から1年放置します。 水と共に渋が抜け、色が美しくなるだけでなく重量が軽くなるので、搬出の負担が軽くなります。
ヘリコプター集材
かつては馬や人の手によって集材が行われてきましたが、
現代の吉野ではヘリコプターによる集材が主流となっています。
夏は、木の根元に草が生えるので手作業で草刈りをします。 急な斜面を登りながらの大変な作業ですが、家族のように大切に木を扱うことで、 吉野の山には手入れされた木が出来上がります。
秋は、木の伐採と冬を迎えるにあたり、植えた苗木が雪の重みで倒れないように、1本ずつ補強していきます。
冬は、春に植える苗木の用意や伐採する丸太を選んだりします。
春は、吉野の山の雪解けと同時に山に行き苗木の植えつけをしたり雪の重みで倒れた苗を起こしたりします。 また、長い年月をかけて育てた丸太の伐採の季節でもあります。
この作業を繰り返し約80年間かけて大切に育てられた木材を、無駄のないように製材していきます。
吉野の林業は、「多間伐」と「長伐」も大きな特徴です。 一度にすべての木を切ることはほとんどありません。 植林を行った年、植えた本数、何年後に間伐をどれくらい行うか、今ではすべて記録されています。 たくさん植えて、少し大きくなったら間伐を行う。そして出来るだけ長く長く育ててあげる。 このサイクルを大切にしています。
日本三大人工美林の1つに数えられる奈良県吉野地方の杉林。
奈良県中南部での林業の事は「吉野林業」と呼ばれています。
吉野産の杉が国産のブランド材の1つと呼ばれるに至った理由として、
ぜひ下の年表をご覧ください。
1500年頃 | 川上村で人工造林が始まる。 大阪城・伏見城の城郭建築用材として吉野材が利用される。 |
1670年頃 | 銭丸太の製造が始まる。 |
1700年頃 | 借地林業・山守制度が始まる。 |
1720年頃 | 樽丸製造が始まる。 |
1862年頃 | 四国巡礼僧・杉原宗庵が吉野地方の樽丸割りを見て、 下市町にて割りばしの工法を伝授。 |
1865年頃 | 全国的に大濫伐が流行したが、その風潮にはのらず、高齢林が維持された。木材需要が増し、材価が高騰する。村外者の山林所有者が増える。 |
1877年頃 | 杉の林地乾燥が行われる(3か月間) |
1915年 | 東吉野村小川にて人工絞丸太「小川絞」が創始。 試行錯誤の人造絞の研究が進められる。この頃ほぼ現在の大山林所有形態になる。 索道による集材が始まる。 |
1928年 | 吉野鉄道が吉野山まで延長される。この頃樽丸生産が最盛期を迎える。 |
1939年 | 吉野貯木場の開設 |
1940年 | 樽丸から柱角に生産目標が移行する。 |
1951年 | 伐流送が終わり、トラック輸送となる。 |
1954年 | 檜橋の製造が開始される。 |
1959年 | 伊勢湾台風襲来 甚大被害被る |
1970年代 | ヘリコプター集材が始まる。 吉野材のブランド化を進める。 吉野材の品質管理販路の拡大等のため吉野材センターが設立される。 |
1980年代 | ヒノキ・スギ集成材単板(集成材の化粧用の原板)の製品化。 |
1985年 | 3月に冠雪被害を被り激甚災害指定を受けた |
2006年 | 奈良県森林環境税導入 |
2011年 | 8月~9月に発生した台風12号15号の降雨による山腹崩壊で 死者行方不明者を出した紀伊半島大水害により吉野林業地帯が大きな被害を受けた |
2016年 | 4月 吉野林業地帯を含む、2町5村が日本遺産に認定される。 5月 川上村を含む1市1町5村で構成された大台ケ原、大峰山、大杉谷ユネスコエコパークに認定される。 |